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福ちゃんの里山通信

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木更津の里山から発信します。

雀百まで踊り忘れず「カラオケ好きのポルカ」 ①

私の思い出す最初の「歌」の記憶は、2歳か3歳の頃でしょうか。
「雀百まで踊り忘れず」と言いますから、
  ルーツを3回に分けて振り返ってみることにします。


父母は農作業、それと同行する幼な児は、
  することもなく畑で独り遊びです。
畑の境界には桐の木が植えられていました。
女の子が生まれると嫁入り道具のタンスなどにと、
  おおむねの親はそうして育てていました。
雀百まで踊り忘れず「カラオケ好きのポルカ」 ①_b0275715_16411086.jpg
私には格好のステージでした。
その木に登って、大声を張り上げていました。
どんな曲だったのか、誰に教わったのか、
  とんと憶えてはいません。
歌を知っていることすら不思議な幼児時代です。


少し大きくなると…。
思い出すのはお祭りの宴です。
たくさんのごちそうが作られました。
唯一お肉が食べられたのもこの日です。
我が家の鶏が生け贄にされました。
こづいて肉団子が作られたり、きんかんの煮物はうまかったなぁ。
(こんな事はどうでもいいんですね。)

その日には大勢の親戚が集まるんです。
宴が進むと余興も飛び出してきます。
隠し芸などと言い、様々なパフォーマンスも披露されました。
  浪曲を唸った人、詩吟を詠じた人、手品を演じた人…。
もちろん歌は主流でした。
もっぱら手拍子や皿・茶碗を叩く音が伴奏でした。
雀百まで踊り忘れず「カラオケ好きのポルカ」 ①_b0275715_16414475.jpg
小皿叩いてチャンチキおけさ…なんてね。
雀百まで踊り忘れず「カラオケ好きのポルカ」 ①_b0275715_1642931.jpg
鳴り物を持参する凝った人もいました。

そんな雰囲気の好きな母は簡易演台を作り、パフォーマンスです。
影響を受けた私のステージも、
  桐の木から宴席の小箱にと移りました。
シーツで飾られた母の演台です。

曲の種類も民謡あり、軍歌あり、
  様々なジャンルが飛び出しました。


ラジオの音に合わせて歌ったり、
  レコードの音に合わせて歌ったりもしていました。

ちなみに我が家もラジオを買い換えました。
『浪曲道場』を聴いていたのは5級スーパーだったと思います。
ドドーンと太鼓の鳴る玉川勝太郎氏のあれです。
雀百まで踊り忘れず「カラオケ好きのポルカ」 ①_b0275715_16425069.jpg
まだラジオ本体を叩いて調整していましたから、真空管式でしたね。

知人の道楽部屋には貴重な「骨董品」も…。
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こうなると鑑定団に出せそうなお宝です。
道楽部屋は失礼です。
ちょっとしたミュージアムです。


レコードプレーヤーは蓄音機と言われ、
  もちろん我が家にはありませんでした。
ビクターの社票に代表されるラッパのついたあれがありました。
雀百まで踊り忘れず「カラオケ好きのポルカ」 ①_b0275715_1719611.jpg
(エジソンのは知りませんよ。)


レコード盤も78回転の円盤、落としたら割れる代物です。
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「瓦盤」とも言われていたとか…。

私の隠れたレパートリーにある、
  東海林太郎氏の『名月赤城山』
  高田浩吉氏の『大江戸出世小唄』も、私が生まれる前の曲ですので、
    世に出たのはこの瓦盤ですよね。
今聴くとザワザワとレトロなノイズが郷愁を誘います。

裕福な友の家にだけはありました。
でも私たちは、鉄製の蓄音機の針でダーツのような遊びです。
鉄製があるなんて、珍しくはありません
実物の竹製の針も見せて頂きました。
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1回使うごとにカットして使うそうです。


レコードも33.1/3回転や45回転などと言うのが出て、
  求めやすくなりました。
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45回転はいわゆるドーナツ盤です。
かと言ってそうそう買える物ではありません。

前後してフォノシートも出てきました。
始めて買ったのは、どういう訳か村田英雄氏のこれです。
雀百まで踊り忘れず「カラオケ好きのポルカ」 ①_b0275715_17214030.jpg
(これなら私にも買えましたもの…。)
三波晴夫氏などと同じように、浪曲界から歌手転校に成功した歌い手です。
『浪曲道場』なんてのを聴いていた少年でしたから、
  きっとこのフォノシートを購入したんでしょうね。


この頃は中学生時代でしょうから、
  マイステージはクラスのホームソングタイム、旅行のバス内のマイクでした。
雀百まで踊り忘れず「カラオケ好きのポルカ」 ①_b0275715_17223658.jpg
九州電気㈱の画像拝借


曲は守屋浩氏・平尾昌章氏をアカペラで…。
(もちろん伴奏用のレコードなんてありゃしません。)
今でも調子づくと声色を真似するんですよ。
(言い方が古すぎますね。)


中学時代の音楽の時間も書かせて下さい。
年1度、個別の歌唱テストがありました。
楽譜も読めず、耳からでないと憶えられない私は、
  3年間『荒城の月』で通したような気がします。
音楽教師(ハイドンバッハ)もよくぞそれを許してくれました。
懐がでかかったんですね。
(私たちはハイドンバッバと呼んでました。)
私の音楽の評定「4」はそのおかげでしょうか…。
後はテストの為の丸暗記です。
今でもふとした拍子に海馬から出てきます。
 「カン・タン・チョウ・タン・チョウ・カン…??」
 「トニイホロヘハ、ヘロホイニトハ…??」
何だか今でもさっぱりわかりません。
何しろ当時の高校入試は9科目もありましたから…。
点数勝負には丸暗記でしか立ち向かえません。


テープレコーダーが世に出てきました。
オープンテープからカセットテープへと発展してゆきました。
雀百まで踊り忘れず「カラオケ好きのポルカ」 ①_b0275715_17251285.jpg
メディアの選択肢も増えてきます。
ラジオ → テレビ → レコード → テープと…。
後にはこれもカラオケのアイテムです。


ちまたでは「歌声喫茶」などがはやりました。
ギターなどの伴奏で合唱していました。
ジュークボックスも出てきました。

どうもそちらに走らなかったのが不思議です。
(まじめで、学問一筋だったから…ではありませんよ。)
GSやロックにも浮気しませんでした。
どちらかと言うと、歌謡曲に針が振れていたからでしょう…。


職業を持ち始めると、時節の変わり目に慰労会と称する宴会がありました。
宴席には歌が次から次へと出てきます。
もちろん、まだまだ軍歌や詩吟なども披露されました。


と…ここまでで息切れを起こしました。
ひとまず投稿はここまでとしておきます。

…continue…
by fukuchan-ckj | 2015-02-19 19:20 | その他 | Trackback | Comments(0)

by 福ちゃん