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福ちゃんの里山通信

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木更津の里山から発信します。

半世紀も昔の文集から

本棚の古い書物をあさっていたら、
  高校2年の頃の文集を見つけました。
文学部に所属していた頃のなつかしい文集です。

文集と言っても今のように
  パソコンで簡単に編集・印刷ができるというものではなく、
    ヤスリと鉄筆を使った謄写版印刷でした。
ガリ切りと言ってました。
おまけに輪転機などもなく、
  1枚1枚手刷りでした。

半世紀も昔の文集から_b0275715_23441912.jpg

懐かしいでしょ…。
写真は更に10年くらい後の
  改良された高級ヤスリです。
このころでさえ手はけっこう黒くなりました。


文学にかぶれ、
  亀井勝一朗氏に傾注していました。
その影響は少なからず確認出来ました。
懐かしいのでそのままアップしてみます。


『小さな人生観』

 青春期にある私達が、人生に目を向けても人生を知り得るものではない。かと言って、目を逸らすのはあまりに卑怯ではないか。分からなければ分かるまで追求しようではないか。
 誕生した生命は、幾多の事物により生き、終には死んでいく。古来の文化も伝統も、その一個一個の生命からできているのに、ややもすると遺物のみに目をとらわれ、貴重な個々の人生を忘れがちになる。私は『人生とは○○である』などと定義づける事はできない。しかし今、己がその中にある事実から、何かが表出してくるのを隠す事ができない。
 動物や植物を愛翫して老いていく人をまま見かける。又、神仏に身を任せている人もある。或いは絵画に、音楽に、文章にと挺身している人々は、そのものに生甲斐を感じている。「私はこのために人生を捧げます。」そう思って活動している。彼らの人生がそれに挺身することにある。私は、その二者間の強烈な愛を見出さずにはおれない。
 自分の心に、誰もが愛の存在を認めるであろう。非凡人のそれと違い、私達のそれは、如何にも小さくたあいのないものである。今の世にはこの愛に妙な意味をつけて考える者が少なからず多い。ややもすると、この言葉を口にする事さえ、汚らわしいと思っている者さえみかける。彼らには愛が愛でなくなっているのであろう。
 愛を見出さぬ人にとって、美しい人生はありえない。人生は愛によって形成される。愛は小さな人生である。愛するものとの、出会いと離別は、人生の誕生と死去である。美しく生きることは美しい愛を持つことである。美しく生きる者、死を認識した者である。我々青春児は、死について恐れおののいている。しかし死の方は、我々を好んでいるのである。死に見込まれた以上、死を恐れてもどうしとうもないのではなかろうか。死が恐れる程、我々は美しい人生、美しい愛を持とうではないか。少なくとも私はそう生きたい。『生ある所死がある。生きている今は死んではいない。』



「生・死」に関しては、
  今でも答えが出ていないのですから、
    全く成長していないってことになります。
周りも見えぬのに片意地をはって、
  ここぞとばかりにと捲し上げる青二才でした。
(その点から言えば少しは大人になったと言えますかね。)

半世紀も昔の文集から_b0275715_23451090.jpg

凡人の私は別の意味合いで
  仙厓和尚のように「死にたくない」と言って死ぬしかないけれど…。

半世紀も昔の文集から_b0275715_2345356.jpg


少なくとも、
  慈愛に満ちた宇宙が永遠に続いて欲しいと願っています。

今でも「愛」は大切な信念です。
言葉としては「慈愛」の方が好きですが…。
by fukuchan-ckj | 2014-04-20 23:48 | その他 | Trackback | Comments(0)

by 福ちゃん